TM MAGAZINE 2026年11月3日
上町台地と日下|気の良い場所は先人たちに取られていた
大阪城の築城された場所は上町台地の北端にあたり、西には大阪湾が、東には河内湾が広がっていた。「水の世界に囲まれた半島」こそが、上町台地の本質である。大阪城の立地は、豊臣秀吉の築城以前から、誰を通すかを選別する要衝だった。森ノ宮から東を向くと、春分の頃、生駒山の日下辺りに太陽が昇る。
僕は大阪城が好きだ。
思えば以前は、週6で大阪城に通い詰め、ひたすら歩いて撮影していた時期があったほど。そこから大川沿いに天満橋、北浜、淀屋橋から中之島、本町からミナミ、あるいはキタまで歩くのが日課で、四天王寺を経由して天王寺まで歩いたこともありました。
あるとき、ふと僕は大阪城が好きなのではなく、この土地そのものに魅了されているのではないかと感じることがありました。
その後、僕は地形を古代の観点から本格的に調べ続けてきましたが、その過程で、あのとき抱いた感覚は僕に始まったものではなく、太古の時代の縄文人も同じだったことを理解します。
今の大都市となった大阪の姿から誰も想像できないでしょうが、大阪城の築城された場所は上町台地の北端にあたり、かつて周囲には水の世界が広がっていました。それは「水の都」として知られる大阪よりも遥か昔の話。
大阪城から西側には大阪湾が広がり、東側は河内湾が広がっていました。つまり大阪城から四方八方が水の世界であり、海を隔てて北部に千里丘陵、伊丹台地、富田台地が望め、河内湾を隔てて東部に生駒山脈が聳えていました。河内湾はやがて河内湖となり、長い歳月をかけて淀川デルタが自然形成されていき、徐々に今日の大阪の基礎が現れたのです。
つまり、「水の世界に囲まれた半島」こそが、上町台地の本質です。事実、現在の大阪城、四天王寺、住吉大社を地図でつなぐと、見事に古代半島の上に造られていることがわかります。かつて四天王寺は入り口から西側には海が望め、住吉大社は海人族の最大の玄関口でした。ある意味、神道と仏教の聖域が、大阪では古代上町台地という半島に鎮座しているのです。
あくまでも仮説ですが、僕は大阪を考えるとき、今は都市の中心となっているキタやミナミは、かつて水の底であったために気が悪いのではないかと常々思っています。そして気の良い大阪の立地は、ほぼ例外なく、上町台地上にあったように思えてなりません。
中でも大阪城の立地は、かつて古代海人族が半島をめぐり、直接生駒山脈や河内方面へ入り、現在の応神天皇陵などがある河内台地付近を経て、山越えで大和へ進出する主要ルート上にありました。言い換えれば、誰を通すかを選別する要衝です。この地は豊臣秀吉の築城以前から、要衝としての歴史を抱えているのです。
実際、大阪城の聳える森ノ宮からは縄文遺跡も見つかっており、そこから東を向くと、ちょうど春分の頃には、生駒山の日下辺りに太陽が昇ります。
日下は、古くは草香とも書かれた地です。今は日下と書いて「くさか」と読みますが、この字は当て字で、そこに込められているのは「日の下」、つまり太陽が昇る地という意味であり、日下はそれを今に伝える古い地名の名残です。
日下一帯から周囲は、古代氏族の筆頭格である物部氏が拠点を構えた地でもあり、伝承では、物部氏の祖神ニギハヤヒは、まず河内の地に天降り、そこから大和へ移ったとされます。物部氏は河内と大和にまたがって勢力を広げ、古代氏族として圧倒的な力を持ちましたが、その畿内進出の中心が生駒山でした。
その繁栄を伝えるように、今もなお、生駒山には物部氏の祖神ニギハヤヒが篤く奉斎されています。そして大阪市内の気の悪さと比べると、生駒山の気は今も晴れており、まったく別の世界がこの地にあったことを感じます。
このように大阪城一つを考えるだけでも、今栄えている都市や場所が、太古の昔から気が良かった場所ではないことが見えてきますし、むしろ気の良い場所は、既に先人たちに取られていたため、後代の人々が発展を遂げるには、水の底だった場所や、気の悪かった場所に街を造らざるを得なかったのかもしれません。
古い時代を読み解こうとしても、戦後に大開発された今の都市や沿岸部の景観からは、その面影を感じることはできません。僕自身、インバウンド観光客に占拠されたミナミやキタに全く寄り付かなくなりましたが、上町台地から眺めていると、その姿はまるで「悪い気の溜り場」を求めて、わざわざ海を越えて来訪する人々の姿に見えます。
いかに街が変わってしまっても、それでもなお、気の良さを直感的に感じる身体感覚は、太古の縄文人から変わっていないのだろうと感じるのです。